プロフィール



1979年大阪に生まれ、滋賀県で育つ。滋賀県立八幡工業高校卒。漫画家をめざし、スーパーの鮮魚売り場でアルバイトをしながら生活。調理師免許も持つ。21歳で日本共産党に入党。民青同盟で青年の雇用と平和を守る運動にとりくむ。
2015年4月の相模原市議選挙(南区)で初当選。
趣味は読書と映画、美術鑑賞。南区上鶴間に在住。



私、羽生田がくの生い立ちと決意
(「はにサポ通信」編集部インタビュー 20151月)から




いよいよ2015年をむかえました。
「はにサポ通信」編集部では、藤井かつひこ市議からバトンを受けて
市政に挑戦する羽生田がくさんにインタビューしました。



*編集部

  あけましておめでとうございます。



○羽生田

  おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。



*編集部

  昨年は急な総選挙でしたが、日本共産党が躍進しましたね。



○羽生田

  8議席から一気に21議席に伸びました。比例南関東で、畑野君枝さんが当選したことはうれしかったですね。今年、安倍政権ストップの声を、今度は地方から大きくしたいと思います。



*編集部

  そうですね。

  ところで、今日は新年の「羽生田がくさんに聞きたい!スペシャル」として、羽生田がくさんがどういう人なのか、じっくりお聞きしたいと思いますのでよろしくお願いしますね。



○羽生田

  はい、こちらこそ。よろしくお願いします。




『安土城』を見ながら育つ



*編集部

  羽生田さんは、昨年の12月に35歳になったんですよね。



○羽生田

はい、12月8日が誕生日でした。35年前、琵琶湖東岸に位置する滋賀県近江八幡市というところで育ちました。安土城で有名な近江八幡は、豊臣の時代から城下町、そして商業都市として発展。私は小さいころ、そんな地域で元気に遊ぶ活発なちびっこでした。

3歳ぐらいの時、引っ越したばかりで右も左もわからない状況の中、「冒険に行こう!」と家を出発。いつまでたっても帰ってこないわが子を探しに奔走したお母さん。最後に隣の家に駆け込んでみると、なんとちゃっかり晩御飯をごちそうになっていたこともあったそうです。怒るとすごく怖いお父さんととても優しいお母さん、そして二つ違いの弟と7つ下の妹の間で、すくすく育ててもらいました。 




遊びに忙しい学さん。「正直」を褒めてくれた先生。



*編集部

  小学生の頃はどんな子だったんですか?



○羽生田

遊びに熱中し、宿題をしない子どもでしたね(笑)。毎日「忘れました」といさぎよく報告していました。他の子は「やったけど…」など忘れたことを隠したりする中、担任の先生は「嘘はダメ。羽生田くんみたいにきちんと言いましょう」と褒めてくれたほどでした(笑)。とうとう「羽生田くんが宿題をやってきたら、他の子は宿題なしにします!」とまで言うほどで、友だちからも「やってこいよ」と言われたにも関わらず、頑としてやりませんでしたね(笑)。



*編集部

そこまで宿題をやらないとは、ある意味、「大物の予感」ですね(笑)。
遊ぶのに忙しかったんですね。



○羽生田

そうですね(笑)。それに、その頃、私が漫画家をめざす原点となった「ガンダム」に出会ったんです。近くのクリーニング屋さんの片隅に漫画や雑誌が置いてあって、毎日、友だちとクリーニング屋さんに行って、漫画を見ることが楽しみでした。月1回、自分で『ボンボン』(漫画雑誌)を買って、その中のガンダムを模写し始めたのが、小学校高学年。夢中になりましたね。

それまでは外で遊ぶことが多かったのですが、学校の運動場を誰が使う?使わない?でもめるのが嫌で、友だちが遊びに誘いに来ても断って、一人で絵を描いていることもありました。




なぜか悪がきに慕われるがくさん。すごみある?



*編集部

  中学生時代はどうだったんですか?



○羽生田

  一言で言うと、「つまらない思春期時代」でしたね。中学校に入って、いじめも多く、いじめられる対象がぐるぐる回ってくるのを目の当たりにしました。関わるのが面倒くさく、「フツーに生きたい」と、この頃から次第に「大人しく」なりましたね。



*編集部

  いじめっ子から目をつけられたりしませんでした?



○羽生田

中学2年生の時、不良のSくんとトイレで肩がぶつかったときに因縁つけて来て、いつもならそんなことしないんだけど、すごくイライラしていて、『うっせーな』って向かっていったんです。そしたら、Sくんがすぐに恐縮して『すみません』て言って来て、私もすぐに我に返って『あ、いや、べつに』って言ったのだけど、その日を境にSくんがペコペコ頭下げてくるようになって。陰険な人たちに絡まれていると、Sくんが注意してくれて。不良のグループ?とか間違われていたこともありました(笑)。



*編集部

それは意外な過去ですね(笑)。



○羽生田

 高校は、地元の工業高校に進学したのですが、荒れていて、いわゆる学級崩壊状態でした。授業もみんなが寝ていたり、しゃべりまくってて、そんな中でも、先生たちはちゃんと向き合っていた。まじめに授業もやって、どの先生も全員卒業させるのに必死で、そのことにとても感動しました。今から思うと、この頃から「俯瞰(ふかん)でみる」ことを覚え、なぜこんなことになっているのかなど、友だちとまじめにしゃべったりしていました。




「社会の話ができる」と民青に加盟。日本共産党入党。



*編集部

高校卒業後、就職したんですよね。



○羽生田

地元の自動車部品メーカーに就職しました。ライン作業でノルマに追いかけられる毎日。それでも当時(17年前)は、「残業」の扱いがまだまともだったと思います。残業はお願いされる感じで、断る権利もありました。友だちは断って帰っていたけど、私は断れず残る日が多かったですね。でもちゃんと残業代はつきましたよ。



*編集部

  この頃に民青や共産党に入ったんですよね。



○羽生田

20歳のとき、民青()に誘われ、「社会の話ができる!」と加盟しました。民青は週に一度「班会」という集まりがあり、「行くと、『好きなこと3分しゃべって』とか言われて、仕事のこととかしゃべると、みんな「へぇへぇ」って聞いてくれました。不思議なところだなって思いましたけど、自分にとっては本当に新鮮な出会いでした。

  21歳で日本共産党に入党しました。尊敬していた民青の先輩が共産党員で、党のことも政治的なことも何でも知っていて、そして何でもする人。多趣味で、カヌーで川に出たり、京都大学のアカペラライブとか連れて行ってもらったり、その人みたいになりたいなーって思っていました。「誰もが人間らしく文化的に生きられる条件を築いていきたい」というのが私の入党の原点でした。



 ※民青…正式には日本民主青年同盟といって、15才から30才が加盟できる青年組織です。くわしくはhttp://www.dylj.or.jp/



 

夢に向かい、一度は挫折するも再び挑戦



*編集部

  ところで、羽生田さんは漫画家を志していたんですよね。



○羽生田

  ええ、ずっとその夢をあたためながら貯金してきました。

  仕事中に指のケガをして、いくつか部署や会社を変えましたが、22歳の時に、お金もたまり、いよいよ夢を追いかけて上京したんです!

 一年間、自分で描いた漫画を出版社に売り込みに行く日々。その後一年間アシスタント生活をしました。友だちと3人で同居しながらの貧乏生活でした。しかし、とうとうためたお金も尽きて、残念ながら一度実家に戻らざるをえなくなりました。「また東京に行こう」との決意を胸に、実家に戻り、アルバイトをしながら2年間、上京するためのお金をためました。



*編集部

  それで、夢に向かって再び実家を出るんですよね。



○羽生田

  2005年、26歳の時でした。二度目の上京は神奈川県相模原市。意外に都会なんだぁ、人が良く集まるところだなというのが住んでみての第一印象でした。

  神奈川に来て9年間、イトーヨーカドーでアルバイトを続けながら、漫画の自費出版(後半3年くらいスランプ)を続けてきました。本当に縁あって、相模原の民青にも漫画を描く人が多く、仲間と一緒に自費出版(年3~4回)を5年間続けました。

  自費出版を続ける中で、プロになるのをあきらめた人たちが自己実現として出版しているという現実、そのかわり描きたいものを描いている(プロになったら描きたいものは描けない)という現実を実感しました。そして自費出版に満足している自分にも気づき始めました。




叱咤叱咤叱咤。2回ふられたその相手、Yちゃんと結婚



*編集部

 夢を追うことは、なかなか大変なことですよね。ましてや知らない土地で一人ですし。



○羽生田

  幸せなことに、いろんな人に支えられました。

その中で、陰で叱咤激励?してくれたのが、昨年結婚したYちゃんでした。Yちゃんとの出会いは、実は一回目の上京の時。民青の班会でした。

第一印象を聞くと、「いいオーラを感じた」とのこと。 

つき合い始めたのは、最初に上京して、一度実家に戻らざるをえなくなった時でした。「一度一緒に美術館行きたかったよね」と話したら、「じゃぁ行こう」とYちゃん。上野のシャガール展を観に行きました。別れ際に「支えてほしい」を思い切って言うと、「陰で支えるタイプではありませんが」と遠距離恋愛が始まりました。

つき合いはじめると、言葉のとおり、陰で支えるタイプではありませんでしたね(笑)。叱咤叱咤叱咤の嵐。「あなたの煮え切らない生き方が不安」と、2回にわたって「距離をおきましょう」と切りだされました。

  それでも自費出版のメンバーだったYちゃんに、「メンバーだから」と理由をつけて、漫画を売りに行くときに「来たら?」と電話してみたり(笑)。なんとか、昨年の秋に結婚するに至りました。この地域で共にがんばる決意です。どうぞ、未熟な二人ではありますが、よろしくお願いいたします。




「人間らしく文化的に生きる社会」めざして市政に挑戦!



*編集部

  波瀾万丈でしたね(笑)。微笑ましい話でした。

  さぁ、いよいよ地方選の年ですね。

  がくさんはどんな社会をつくっていきたいですか?



○羽生田

一番は、ブラック企業など人間を使い捨てにするような働かせ方をやめさせたいですね。国でも日本共産党は「ブラック企業根絶法案」を出してがんばっていますが、市としても若い人に働く権利を知らせたり、相談窓口などの対策を強めていきたいです。

同時に、働きがいとともに文化も楽しめる生活を保障できるような、労働条件の改善を求めていきたいですね。先日、介護の仕事をしている20代の男性から「1日18時間働いて手取りはわずか18万円。人生の最後に、こんなにストレスの溜まった職員のいる所に押し込められて、高齢者がかわいそうです」という切実な声を聞きました。希望を持って介護の仕事についても、離職せざるをえない状況が少なくないそうです。私は、社会保障の切り捨てをやめさせ、介護や福祉にたずさわる方の抜本的な賃上げをはじめ、人的確保もふくめ、働く人が大事にされる政治に切り替えたいと思います。

  また私自身、学費が高すぎて「大学に行きたい」と言えなかった経験から、「外国のように無料で、年齢に関係なく、学校に通える社会にあこがれます。働いたり、学んだり、自由に生きていける社会。それが人間らしく文化的に生きる保障となると思うようにもなり、だれもが人間らしく文化的に生きるな社会をめざして運動したいと思っています。



*編集部

なるほど。ぜひ、そんな社会をつくってほしいですね。



○羽生田

  地域の問題でも、日本共産党の市民アンケートや、街頭でたくさんの声が寄せられています。特に大野周辺に住まわれている方からは、「区画整理されていないため、道が狭い」「渋滞がひどい」など、交通に関する要望が多いですね。さらに「スーパーが地域に1つしかなく買い物が不便」とか、「介護施設が少ない」「年金が減って生きていけない」「子どもを安心して預けられる保育園がほしい」などの声も寄せられていますので、こうしたねがいを市政に届け、実現をめざしていきたいと思います。

  それから、何より平和でないと、人間らしく文化的な社会はつくれないというのが私の信条です。米軍基地の爆音解消、オスプレイ配備反対、そして集団的自衛権など海外で戦争する国づくりを許さない声を上げ続けたいと思います。平和憲法をしっかり守り、生かしていきます。



*編集部

最後に一言、決意をお願いします。



○羽生田

  仲間の励ましもいただき、「自分にできることがあるなら」と挑戦を決意しました。これからの日本を、相模原市を、共につくっていく同世代や、またもっと若い人たちに、「政治を自分の問題として一緒にとりくんで行こうよ」「一緒に住みやすい社会をつくろうよ」と呼びかけていきたいですね。そのためにも、SNSや好きな漫画を描いて発信していくことは続けていきたいですね。

 

*編集部

ありがとうございました。漫画での発信、楽しみにしています。

 私たち若者や子育て世代の代表として、本当にがんばってもらいたいです。